「生活保護」という言葉に、みなさんどんなイメージをお持ちですか。
 ポジティブかネガティブかと問われれば、ネガティブな印象をお持ちの方が大半ではないでしょうか。なぜでしょう。それは、生活保護に絡んだ話題の多くが「不正受給」、または「打ち切り」「水際作戦」など、生活保護を受けたくても受けられない、そしてその結果、「孤独死」が起きた、などというものばかりで、「生保のおかげで助かった」とか「生保があるから安心」などの話を一切聞かないからではないでしょうか。
 なんでそんなことになってしまっているのか。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」との憲法条文はどうなってしまったのか。生活保護をめぐる動向から探っていきたいと思います。

14 Oct

  久しぶりに大阪に帰ってみると、近くの商店街が変わっていました。

 変わったといっても大きな変わりようではないのですが、昔買い物をしていた店がなくなって空き店舗になっていたり、しばらくの間休みとなっていたりして、「えっ!」とびっくりしました。ニュースでは阿倍野に超高層ビルが建設された、大阪駅前に新しい店ができた、というようなことっています。それは事実で、とても景気がいいように聞こえるのですが、身近なところから景気の悪さの波はやってくることを実感しました。

 

 さて、今回は、石川県で生活保護基準引き下げ取り消しの提訴が行われることになり、その集会に行ったことを少し書きたいと思います。

 

 生活保護の老齢加算廃止取り消しを求める裁判、いわゆる生存権裁判の京都と福岡の最高裁判決がだされました。いずれも棄却です。そのニュースを見たとき、生活保護基準の壁というのはなんて分厚いんだ、と落ち込んでいました。そこへ、石川県で生活保護基準引き下げ取り消しの訴訟が行われるにあたっての集会があると聞いて、参加しました。まず、井上英夫先生の講演を聞きました。現在の社会保障の流れ、生活保護の歴史等も話されましたが、私が印象に残っているのは、権利のための裁判というのは取り組むことで周りに様々な影響を与えるということでした。裁判というと、どうしても勝ち負けがどうかということが気になります。私もそうなっていました。しかし、こうやって社会保障の権利について争うことができるようになったのは戦後のことです。その権利を行使することで、周囲の人々に争う権利があるということ、実際に争っていることを知らせることができます。また、今の生活保護基準は果たして憲法25条に沿ったものか、その生活保護基準が自分たちの暮らしにどんな影響を与えているのか、考えるきっかけにもなります。実際、新聞にもニュースにも何度も生存権裁判のことが取り上げられました。訴訟を起こすということがどのような意味を持つのか、改めて考えさせられました。

 

 そして、原告の方の決意表明がありました。石川県では4名の方が原告となられています。その中で、「決められた枠の中でしか生活できないから、生活を切り詰めようと思ったら切り詰めることはできるが、それが本当に健康で文化的な生活なのか」という話が特に印象に残りました。生活を切り詰める、一番節約できるのは食費です。衣類もそうでしょう。食費というのは、別のものに置き換えることが可能です。ごはんの代わりに麺類、魚の代わりに肉、というようにです。衣類は今あるもので済ませる、安いものを買うなど、買う買わないの選択ができ(食費はこれができません)、高いものの代わりに安いものを買うなど、食費ほどの選択肢はありませんが、置き換えは可能です。しかし、それ以外のものは節約が困難です。

 

生活保護を利用している人たちは、最低限度の生活費としての生活保護基準の中で生活しています。老齢加算を廃止された方たちは、生活を切り詰めるために、高齢でありながら相当無理をされていました。切り詰める以前に元々支出できていない費用もありました。そのような生活実態が裁判の進行の中で明らかになりました。生活を更に切り詰めさせるということが果たして「健康で文化的な」最低限度の生活なのか、原告の方の言葉を聞いて、考えさせられました。

 

元金沢星稜大学非常勤講師 冨家 貴子