「生活保護」という言葉に、みなさんどんなイメージをお持ちですか。
 ポジティブかネガティブかと問われれば、ネガティブな印象をお持ちの方が大半ではないでしょうか。なぜでしょう。それは、生活保護に絡んだ話題の多くが「不正受給」、または「打ち切り」「水際作戦」など、生活保護を受けたくても受けられない、そしてその結果、「孤独死」が起きた、などというものばかりで、「生保のおかげで助かった」とか「生保があるから安心」などの話を一切聞かないからではないでしょうか。
 なんでそんなことになってしまっているのか。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」との憲法条文はどうなってしまったのか。生活保護をめぐる動向から探っていきたいと思います。

27 Aug

 とうとう本格的な夏がやってきました。 

 石川県の夏は大阪に比べて湿度が高く(体感ですが)、どうやってばてることなく過ごせるか毎年悩みます。健康野菜と言われるものを食べたりするのですが、体力も年々落ちてくるのを実感しているので、栄養ドリンクも飲まないといけないかもしれない・・・とこの頃考えています。

 

さて、昨年の4月に、生活扶助基準算定方式の変遷として、格差縮小方式をとりあげました。そのことに関して、「そうだったのか」と考えさせられたことがあったので、紹介したいと思います。

 

先月、7月に賃金の学習会に参加しました。物価などで賃金が下がり、賃下げが起こったりするがそれでよいのか等、賃金の理論から現在の問題まで幅広い学習会でした。そこで講師の方が、「日本では高度経済成長期に物価が上がったからベースアップもそれに合わせて行われてきたが、その時は自然に賃金が上がるので、自分たちの生活に何が必要かの議論を十分しなかったという問題点があった」ということを話されていました。

 

 この話を聞いて、「あっ!」と思いました。生活扶助基準算定方式の格差縮小方式の問題点を高野史郎氏が指摘していましたが、実は賃金問題でも同じ時期に同じ問題が起きていたのかということを講師の話を聞いて初めて知ったのです。高野史郎氏が指摘していたのは、格差縮小方式(経済成長の伸び率にプラスアルファ分を加え、一般世帯の60%の消費支出に達するよう毎年生活扶助基準を上げる算定方式)によって生活扶助基準が毎年上がっていくと、格差縮小方式が続く限り、生活保護基準で営むことのできる生活水準の実態検証は必要でなくなること、最低生活水準を追求する主体的契機を阻害するということでした(1)。高野史郎氏の指摘は、講師の話していた高度経済成長期の賃金問題に直結します。

 

 講師の方は続けて、「自分たちが生活していくのに何が必要で、それにどれだけの費用がかかるのかをしっかりと議論しないと、『物価が下がったから、景気が悪いから』という理由で賃下げがいくらでも起こる」と話しておられました。これは賃金だけでなく、現在の生活扶助基準引き下げの理由でもあるのです。

 

 そういえば、イギリスの社会学者であるピーター・タウンゼントも、1974年の文献ですが、物価指数は商品やサービスのニード、質や有効性にかかわる変化を適切に反映しないと述べていました(2)。外国でも同様の指摘はその当時から行われていたのです。

 

 現在、最低生計費を研究者の方々が試算されていますが、その方法にマーケット・バスケット方式を使用されている方がいます。これは市場で買い物をするように、私たちの生活に必要なものを積み上げていく方式です。マーケット・バスケット方式のように、私たちの生活に何が必要かを積み上げていく議論が、高度経済成長期の賃金議論には必要だったし、私たちの「健康で文化的な」最低限度の生活を考える上でも必要な作業だったのです。

 

 講師の方の話に「そうだったのか」と思い、自分が書いてきた文章に賃金の理論が足りなかったことに気づき、書いてしまった文章を書きなおせるなら書き直したい(もう印刷物になっているので修正できませんが)と、同時に後悔もしました。

 

 いずれにせよ、8年ほど引っかかっていたことの糸口が見えてきた学習会でした。

 

元金沢星稜大学非常勤講師 冨家 貴子

 

 

(1)高野史郎「国民生活の『最低限』の確立と不平等」江口英一編著『社会福祉と貧困』法律文化社、1981年、p399

(2)Townsend, Peter Poverty as relative deprivation : resource and stile of living Wedderburn , Dorothy  Poverty, inequality and class structure  Cambridge University Press,1974,p18 D.ウェッダーバーン編著、高山武志訳『イギリスにおける貧困の論理』光生館、1977年、p23