「生活保護」という言葉に、みなさんどんなイメージをお持ちですか。
 ポジティブかネガティブかと問われれば、ネガティブな印象をお持ちの方が大半ではないでしょうか。なぜでしょう。それは、生活保護に絡んだ話題の多くが「不正受給」、または「打ち切り」「水際作戦」など、生活保護を受けたくても受けられない、そしてその結果、「孤独死」が起きた、などというものばかりで、「生保のおかげで助かった」とか「生保があるから安心」などの話を一切聞かないからではないでしょうか。
 なんでそんなことになってしまっているのか。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」との憲法条文はどうなってしまったのか。生活保護をめぐる動向から探っていきたいと思います。

07 Sep

金沢市に住んでから丸4年が過ぎました。

最初は歴史や文化の違いに戸惑いましたが、ようやく金沢市の歴史をひも解きたいという思いがわいてきました。今までの立ち位置から一歩下がって、客観的に見ようとする余裕が自分の中で少しできたのかなと思っています。そこで、今回は、以前書いた恤救規則が制定されるまでの歴史の具体的な例を、金沢市の歴史から見ていきたいと思います。

 

 江戸時代、加賀藩は「座頭座」をつくり、目の見えない人たちに鍼術や琵琶を教え、経済的に自立できるよう、経済的な援助と技術指導を行っていました。五代藩主前田綱紀は、1669年の大飢饉の際、貧しい人々が城下にあふれているのを見て、高齢者や貧しい人二千人余りを収容する「お救い小屋」を設置しました。そして、干潟を使っての田畑の開拓指導などを行いました。お救い小屋の管理は、町奉行の下にいる与力などが行っていました。病人がいると看護人をつけ、医者が治療を行っていました。これらの制度は、200年余り運営されていました。

 

 1864年、大飢饉が起きます。1867年、加賀藩最後の藩主前田慶寧(よしやす)は、これらの事業を現在の金沢市内にある卯辰山(うたつやま)という山で行うことにしました(「卯辰山開拓」と呼ばれる)。貧病院(卯辰山移転時「養成所」と名付けられた)をつくり、お救い小屋(卯辰山移転時「撫育所」と名付けられた)と座頭座を卯辰山に移しました。撫育所には、作業場もつくられ、大工、漆器製造、陶芸、その他手工芸などを役人が指導していました。

 

 1871(明治4)年、廃藩置県により、藩制度がなくなり、中央政府の下に府県が置かれました。以前、廃藩置県と同時に藩独自の救済制度も廃止されたと書きましたが、加賀藩も同様でした。座頭座や撫育所などは廃止され、それまでそこに収容されていた障害を持つ人や高齢者は路頭に迷いました。また、士族も職を失い、家財道具などを売り払い、生活の糧にしていました。士族の中には生活に困窮し、路頭に迷う人も出てきました。

 

 このとき、小野太三郎氏が私財で家を買い、これらの人たちを収容しました。これらの収容所は小野救養所と呼ばれました。

 

 小野太三郎氏は、加賀藩の下級武士でした。少年時代、近江町(おうみちょう)で、通りすがりの人が嘲笑する中物乞いをする高齢者を見て慈善の考えを持ち、生活を切り詰めたため十代で白内障となり、一時失明した経験から慈善活動を行うことを決心したとされます。

 

 小野太三郎氏は、士族などが売り払った食器や家具、古着などを修理した後販売し、古物・古着商として成功し、財をなしていました。そして、その私財をすべて救養所の運営に充てたのでした。町の人たちも、困窮した人がいれば小野救養所が何とかしてくれるという思いを持っていました。小野太三郎氏の晩年、その救養所の運営を維持していくためには彼だけの手には負えず、日露戦争の戦勝を記念して施設を移転し、「財団法人小野慈善院」となりました。昭和になると再び移転し、現在は「社会福祉法人陽風園」として引き継がれています。

 

 小野太三郎氏の慈善事業は、横山源之助『日本の下層社会』にも紹介されています。横山源之助は、加賀藩の救済制度を引き継いだ小野太三郎氏の事業内容について詳しく触れています。

 

元金沢星稜大学非常勤講師 冨家 貴子

 

参考文献:小坂與繁『金沢が生んだ福祉の祖 小野太三郎伝』北國新聞社、1991年

     北陸中日新聞編『写真集 石川百年』北陸中日新聞、1989年

     北國新聞社論説委員会・編集局編『ほくりく20世紀列伝』北國新聞社、2000年