「生活保護」という言葉に、みなさんどんなイメージをお持ちですか。
 ポジティブかネガティブかと問われれば、ネガティブな印象をお持ちの方が大半ではないでしょうか。なぜでしょう。それは、生活保護に絡んだ話題の多くが「不正受給」、または「打ち切り」「水際作戦」など、生活保護を受けたくても受けられない、そしてその結果、「孤独死」が起きた、などというものばかりで、「生保のおかげで助かった」とか「生保があるから安心」などの話を一切聞かないからではないでしょうか。
 なんでそんなことになってしまっているのか。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」との憲法条文はどうなってしまったのか。生活保護をめぐる動向から探っていきたいと思います。

11 Jul

 西日本では「梅雨前線による大雨」と、連日ニュースで報道されていましたが、北陸方面はその間晴れの日が続いていました。

 

先日、やっと雨が降るかと思ったら、市役所の車が「大雨・洪水警報が出ました」と知らせていました。洪水には至らず安心しましたが(以前浅野川が氾濫したので)、雨の降り方が極端になってきたなあ、これも温暖化の影響かなあと思いました。

 

 さて、今回は、1960年代のエネルギー転換期に生活保護行政にどのようなことが起こっていたのか、少し書いてみたいと思います。

 

 まず「エネルギー転換期とは何か」ですが、これは、1960年代に、石炭から石油にエネルギー源が変わった時期のことを指します。日本のエネルギー源は、元々は石炭で、九州方面や北海道方面を中心に炭鉱がいくつもありました。炭鉱を中心にして製鉄業や炭鉱街も形成されました。しかし、この頃に国策として石油を輸入することで石炭の需要が減り、炭鉱が閉鎖され、街もさびれていきました。

 

 炭鉱で働いていた炭鉱夫の方々は失業してしまいます。都市部に出て仕事があればよいのですが、仕事がない場合、失業保険が切れると生活保護を利用せざるを得なくなります。炭鉱の閉鎖により生活保護を利用する世帯が増えていきます。増えると、今度は生活保護を減らそうと、いわゆる「適正化」が始まります。このエネルギー転換期を起点に「適正化」が行われた時期を「第二次適正化」といいます。炭鉱夫が失業するので、稼働年齢層を中心とした生活保護引き締め(保護を辞退させる、申請を受け付けない等)が行われます。厚生省関係者も重点地域に「指導」という形で派遣されます。1960年代後半から70年代にかけて『生活と福祉』誌に厚生省関係者が派遣された記事が載っていたことがあり、何度も厚生省関係者が派遣された地域があります。それが現在の北九州市あたりです。

 

 数年前、北九州市で餓死事件が起こり、北九州市の生活保護行政の実態が明るみに出ました。申請を何度も断り、それでも申請に来た人は申請の意思があるとみなす、申請書は年間に何枚と決めていて、それ以上の申請は受け付けない等、ひどい行政実態は「闇の北九州方式」と呼ばれたほどでした。

 

 北九州市の生活保護行政には、1960年代のエネルギー転換という歴史的背景があり、それが現在の保護行政に多かれ少なかれ影響しているのではないかと思われます。

 

このことに今回触れたのは、札幌市白石区で、二人の姉妹が餓死するという痛ましい事件が起こったからです。札幌市白石区は、1987年にも、生活保護の申請を拒否された母親が子ども3人を残して餓死するという事件が起こった地区です。『福祉が人を殺すとき』という本に事件の概要が紹介されています。

 

 札幌市白石区は同じことを繰り返しているな、何で同じことを繰り返しているんだろう、北九州市みたいなことをしているのか、と思った時に、エネルギー転換期のことが浮かんだのです。北海道も日本有数の炭鉱を抱えていたところです。北九州市のように、エネルギー転換期の生活保護「適正化」が多かれ少なかれ影響しているのではないか、と推測しています。ただ、北海道は、民族問題やその他の産業(農業や酪農など)の問題もあり、もっと複雑な歴史的背景があるのかもしれません。

 

 ただ、人の命がかかった行政だけに、「生活保護費が膨れ上がるから」という理由で、憲法で保障された私たちの権利を侵害すること自体許されないことなのですが、なぜこうも繰り返されるのか、いつも複雑な思いに駆られます。

 

元金沢星稜大学非常勤講師 冨家 貴子