「生活保護」という言葉に、みなさんどんなイメージをお持ちですか。
 ポジティブかネガティブかと問われれば、ネガティブな印象をお持ちの方が大半ではないでしょうか。なぜでしょう。それは、生活保護に絡んだ話題の多くが「不正受給」、または「打ち切り」「水際作戦」など、生活保護を受けたくても受けられない、そしてその結果、「孤独死」が起きた、などというものばかりで、「生保のおかげで助かった」とか「生保があるから安心」などの話を一切聞かないからではないでしょうか。
 なんでそんなことになってしまっているのか。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」との憲法条文はどうなってしまったのか。生活保護をめぐる動向から探っていきたいと思います。

05 Dec

 振り返ると、いつも季節の話題ばかりだったので、情勢を少し。「税と社会保障の一体改革」の中で生活保護法をどうするか議論されています。

 

 

今回は取り上げませんが、論点をきちんと整理しないといけないと思っております。時期を同じくして、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)問題が農業だけでなく、日本のあらゆる分野、社会保障分野にも深くかかわる問題であることが明らかになっています。この国の社会保障制度は大きく変容しようとしています。

 

 さて、今回は、日本の公的扶助の歴史のもう一つの重要な転換点、第二次世界大戦後の経緯について少し触れていきたいと思います。

 

 戦前は恤救規則を経て1929年に救護法が制定され、そして日中戦争、第二次世界大戦が進むにつれて軍事態勢に沿う各救護法制定へと変遷していきます。恤救規則では国の扶助義務はありませんでしたが、救護法では不十分ながらも国の扶助が義務付けられました。しかし、保護の対象は恤救規則とほとんど変わらず、国民の側から救護法を請求すること、つまり権利としては認められていませんでした。

 

 戦後、日本は深刻な食糧不足、失業に見舞われます。しかし政府は何の手立てもとろうとしませんでした。そこで当時日本を占領していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本政府に国民の救済に関する指令を出します。重い腰を上げた日本政府は、1946年に生活保護法(以下、旧生活保護法という)を制定、施行します。旧生活保護法は国の扶助義務を認めていましたが、国民が生活保護を請求する権利は認めていませんでした。また、対象者を日本に在住する者としましたが欠格条項があり、働ける能力があるのに働こうとしない者、つまり稼働能力のある者は保護の対象から除外していました。

 

 1947年、日本国憲法が施行され、憲法第25条[]によって、国民は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を有することになりますが、旧生活保護法が依然として戦前の内容を引きずったものであったことから、「慈恵的な旧生活保護法の性格が、新憲法第二五条の解釈を規定するという逆転した関係」[]になってしまったといえます。

 

 1948年、GHQから提出された、米国社会保障制度調査団報告書「社会保障制度への勧告」[]を受け、日本政府は同年社会保障制度審議会法を制定、1949年社会保障制度審議会が開催されます。そして同年9月「生活保護制度の改善強化に関する勧告」を日本政府に提出します。様々なことが勧告されましたが、特に①他の社会保障制度にも影響を及ぼす制度であることから、憲法25条に掲げる生活内容を保障する生活保護基準とすること②他によるすべもない者すべてに生活保護を請求する権利を認めること等、現行憲法の内容に沿った法律内容とすることが盛り込まれました。そして、厚生省で旧生活保護法全体の見直しが行われ、国会で審議され、[]審議を経て、旧生活保護法が改正され、現行生活保護法(以下、新生活保護法という)となりました。

 

新生活保護法には、日本国憲法第25条に基づき、保護を申請する権利、不服がある場合は最終的には裁判を起こすことができる権利、どのような理由であっても、たとえ働く能力があっても生活に困窮していれば生活保護を利用することができることなど明記されました。

 

 しかし、後に小山進次郎が述べているように[]、日本国憲法が制定され、国民主権となり、健康で文化的な最低限度の生活を有する権利が明記されても、法律を作った者の意識は戦前の価値観から完全に抜け出したわけではありません。そういう意味では、法律の中に矛盾をはらみ、後に発せられる法律を基にした通達の中にも矛盾をはらみ、それを運用する者の中にも矛盾をはらんでいたといえます。それらが今日様々な問題として現れているのだと思います。[]

 

元金沢星稜大学非常勤講師 冨家 貴子



[] 憲法第25条は、ワイマール憲法を基に、日本の民間団体「憲法研究会」が考え、それをGHQが採用したものである。

[] 井上英夫「第4章 公的扶助の権利――恩恵から人権保障へ」河合幸尾編著『「豊かさのなかの貧困」と公的扶助』法律文化社、1994年、p123

[] 報告書は「社会保障実現の具体的方法並びに計画は日本の現状に照し、且つ、また日本の社会において最も関係を有する人々の立場において決定せらるべきである」(ママ)と示唆している。小山進次郎『改訂増補 生活保護法の解釈と運用(復刻版)』全国社会福祉協議会、2004年、p45

[]審議内容をみると、この当時主要な問題となっていたのは、戦争で夫を失った女性や子ども、戦争で病気や怪我を負った元兵士の生活をどう保障するかであった(軍人恩給はGHQの民主化政策により廃止、1953年復活)。稼働能力を有する者に対しては、失業対策事業があるので、そこで働いても生活に困窮する場合は法の対象にするなどと議論された。前掲「第三章 生活保護法の制定と実施 第三節 國會における生活保護法案の審議」参照。失業対策事業については、GHQの指令により日本政府が行ったが、中間搾取を行う口入屋等の存在(江戸時代は犯罪とされた労働形態である)、建築費削減のための低賃金の温存等をGHQは黙認していた状態だった。また、日本政府は帰農政策を進め、失業対策に本腰を入れていなかった。黒川俊雄『日本の低賃金構造』「後編第1章 占領体制下の独占資本主義の復活と低賃金構造の再編成」大月書店、1964年参照。

[] 小山は「頭だけは、次にいかにゃらん段階というようなものを、かなり頭におきながら、からだの方は依然として昔の状態にあり、その中で切り変えていこうとするので、そういうことの、いろんな矛盾が、今のような表現に出ているというのが、今日振り返ってみれば、どうも偽りのない状況だったと思いますがね。」(ママ)と述べている。『生活と福祉』第154号、昭和44年2月、全社協より引用。篭山京『公的扶助論』光生館、1991年、p21

[] 例えば、外国籍の保護請求権を認めていないこと、保護を利用する理由は問わないとしているが、現在でも「働ける」というだけで生活保護利用を認めないということが起こっているなど。また、当時の生活保護基準は、戦争によって夫を失った家庭の生活保障をどうするかが主眼だったことから、女性1人、子ども3人、高齢者1人計5人世帯をモデルに算定され、恣意的な計算によって、基準自体が低く抑えられていた。