「生活保護」という言葉に、みなさんどんなイメージをお持ちですか。
 ポジティブかネガティブかと問われれば、ネガティブな印象をお持ちの方が大半ではないでしょうか。なぜでしょう。それは、生活保護に絡んだ話題の多くが「不正受給」、または「打ち切り」「水際作戦」など、生活保護を受けたくても受けられない、そしてその結果、「孤独死」が起きた、などというものばかりで、「生保のおかげで助かった」とか「生保があるから安心」などの話を一切聞かないからではないでしょうか。
 なんでそんなことになってしまっているのか。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」との憲法条文はどうなってしまったのか。生活保護をめぐる動向から探っていきたいと思います。

03 Aug

梅雨明けが宣言された途端、待ってましたとばかりに急に気温が上がり、本格的な夏となりました。

 生まれ故郷の大阪と比べると、金沢(北陸)の夏は梅雨に引き続き非常に湿気の多いことが分かります。7月半ばに1泊2日で実家に帰り、京都の研究会に顔を出し、お世話になった方のお宅に伺ってきました。京都は今の私の原点であり、今回も私は京都でいろんなことを教えてもらいました。そんな思いを抱きながら金沢に帰ってきたものの、体力的にも精神的にも疲れているのか、先月のような状態に再び戻りました。そんなとき、今度は小川政亮先生から1冊の冊子をいただきました。封筒を開けて、私の研究を見守って下さっているのだと、思わず泣いてしまいました。小川政亮先生には、この場でお礼申し上げます。

 その冊子というのは、「人間裁判」と呼ばれた朝日訴訟の東京地裁判決文を書いた、小中信幸裁判官(現在は弁護士として活躍されていますが、本文では「小中裁判官」とします)の手記でした。朝日訴訟の東京地裁の裁判官は3人ですが、他の2人の裁判官は亡くなられており、裁判官の目からみた朝日訴訟を語ることのできる方は今では小中裁判官しかおられません。

 今回は、この手記を基に、東京地裁判決文を書くまでの経緯、議論されたことなどを少し紹介したいと思います。


 朝日訴訟は、結核で岡山の療養所で療養されていた朝日茂氏が、入院患者の身の回り品を購入するために支給される入院患者日用品費が1カ月600円では、病状に合わせた補食やその他療養上必要な物を買うことができず、憲法25条・生活保護法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」を送るに値する生活保護基準になっていないとして提訴した訴訟です。朝日茂氏が東京地裁に提訴したのは1957年、1947年に現在の日本国憲法が施行されてから10年、日本で初めて「生存権」の保障が明記されてから10年しか経っていない時期でした。小中裁判官はそれだけに、この訴訟は憲法上、法律上非常に重要な問題について判断しなければならない難しい裁判だと知ったとのことです#。


 しかしながら、当時の生活保護基準は低いということを、公判が進む中で3人の裁判官は共通の認識として持つようになりました。例えば、厚生省が作成した当時の入院患者日用品費の内訳を見ますと、タオル年2枚、パンツ年1枚となっています。また、教養娯楽費は一切含まれていません。小中裁判官自身は、1年に同じパンツ1枚を着用し続けることは考えられない、単調な入院生活を余儀なくされる患者の精神衛生的なケアが全く配慮されていないと思ったとのことです#。3年の審理の間に合計30人の証人尋問、実地検証を行いましたが、それだけでは直ちに憲法25条や生活保護法に違反していると判定することはできなかったとのことです。

裁判所がまず結論を出さなければならなかったのは、法律が厚生省に生活保護基準の決定を委ねているのに、裁判所はそれが違法かどうかの司法判断を下すことができるかということでした。3人は議論を重ね、具体的な生活保護基準が憲法25条水準を満たしているかどうかについての決定は、厚生省の自由裁量に任されているのではなく、憲法25条水準を実際に国民に保障するために、裁判所による司法判断が可能であり、必要であるとの結論に達しました。そのうえで、生活保護基準が違法と判断しなければならないほど不当に低いかどうか判断するための検討を行ったとのことです#。

先述しましたように、日本国憲法施行から10年しか経っておらず、憲法25条そのものも日本国憲法で初めて制定されたものですから、違法かどうか判断するための先例や資料などはほとんどなく、様々な角度から検討して最終的な結論を出すまでには大変苦労したとのことです。

東京地裁判決が出された後、生活保護基準は引きあがっていきました。小中裁判官はこのことについて、厚生省は東京地裁判決が出た後控訴したが、内心は判決を歓迎したのではないかと思ったとのことです#。当時、大蔵省の予算配分によって生活保護基準が全く引き上げられないことが数年続いており、厚生省内部でもどうやって引き上げたらよいのか思案されていました。東京地裁判決が出たことで、厚生省は大蔵省に対して予算引き上げが必要である根拠を示すことができたのだと思います。

後の東京高裁判決、最高裁判決は東京地裁判決とは異なるものとなりました。しかしながら、朝日茂氏がたった1人で裁判所に訴え、そして東京地裁判決が出たことによって、生活保護基準に関して不服がある場合は司法判断を求めることができるという判例が作られました。それが、今日の生活保護の老齢・母子加算削減・廃止=生活保護基準引き下げを取り消す訴訟、いわゆる「生存権裁判」に受け継がれているのです。


 小中裁判官の手記は、裁判所がなにをどのように判断していくのか、また、裁判官の思いを知る機会となりました。日本国憲法が施行されて10年しか経っていない中、3人の裁判官が「生存権」をどのような思いで捉えたのか、さまざまな立場の違いを超えて振り返る必要があるのではないかと思いました。

                 金沢星陵大学非常勤講師 冨家 貴子