「生活保護」という言葉に、みなさんどんなイメージをお持ちですか。
 ポジティブかネガティブかと問われれば、ネガティブな印象をお持ちの方が大半ではないでしょうか。なぜでしょう。それは、生活保護に絡んだ話題の多くが「不正受給」、または「打ち切り」「水際作戦」など、生活保護を受けたくても受けられない、そしてその結果、「孤独死」が起きた、などというものばかりで、「生保のおかげで助かった」とか「生保があるから安心」などの話を一切聞かないからではないでしょうか。
 なんでそんなことになってしまっているのか。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」との憲法条文はどうなってしまったのか。生活保護をめぐる動向から探っていきたいと思います。

28 Dec

 今年も残り少なくなりました。私にとっての今年は、あっという間に走りすぎた感じがします。

  きっといろんな事があり過ぎたのでしょう。そして、とうとう金沢にも雪の季節がやってきました。今月中旬は去年と違い降雪量が多く、雪に慣れていない私は自動車も上手く動かせず、慣れない雪かきで腰も痛め、精神的にも本当にくたくたになりました。世界中の人々から反感を買うのを承知で、雪を見るのがいっぺんに嫌になった私は、心のどこかで地球温暖化を喜んでおります(ただし冬のみ歓迎)。

 
 今年1年は足早に過ぎて行ったため、さまざまな出来事を流し読みしていた感がありました(今年だけではありませんが)。振り返ってみると、研究者の発表や話を聞いているのになぜ気付かなかったのだろう、と思うことがありました。多くの方は気づいていると思いますが、自分自身の反省の意味を込めて、少し書いてみたいと思います。
 
 皆さん「たまゆら」事件を覚えていらっしゃるでしょうか。群馬県の高齢者居住施設「静養ホームたまゆら」が全焼し、多くの高齢者が亡くなった事件です。亡くなった方の中には生活保護を利用されている高齢者もおられました。また、群馬県の方が利用されていると思ったら、東京都の方も利用されていました。生活保護を利用しており、受け入れ先の見つからない高齢者が「静養ホームたまゆら」のようなところに入居していたことが明らかになりました。
 
 その後、「たまゆら」事件と関連があるかは分かりませんが、一部の都道府県において、一部屋に複数の方が暮らす、以前多く見られた「多床型」の特別養護老人ホームの新設を認めていることが新聞報道などによって明らかになりました。特別養護老人ホームは、新設する際は「個室」または個室を基に数名が同じフロアで暮らす「ユニット型」しか認められなくなったのですが、以前の「多床型」を再び認めるようになった背景の一つには、それでは低所得の方の経済的負担が重く、入居できない実態があるからです。また、建設費用も多床型のほうが安くつくそうです。
 
 特別養護老人ホームなどの入所を待機している方が42万人もいることに加え、生活保護を利用している方の場合ですと、「多床型」と「個室」が併存する現在にあっては、「多床型」が最低限度となり、「個室」への入所は原則として認められません。
 
これらの現状から、「たまゆら」事件の背景は、単に「貧困ビジネス」としての批判だけでは済まないものがあると思いました。それは、一つには、多くの方が指摘しているように、国の住宅政策の貧困があるからです。「健康で文化的な最低限度」の生活を営むのに必要な住宅の最低限が存在しない日本では、「個室」が一般的だという議論になっても、高齢者施設の最低基準としてそれが採用されない限り、「個室」はいつまでもぜいたくなものとなるでしょう。
 
もうひとつは、介護保険制度自体の問題があるからです。日本の介護保険制度は、介護保険料負担とサービス利用料の一部自己負担を前提として運営されていますので、要介護度に加えて、所得の如何によってサービスを利用できる限度が決まってしまいます。その方に最低限必要なサービスであっても、経済的負担が重いために利用できないということが起こるのです。それは、今回の「多床型」の特別養護老人ホームの新設の認可に表れていると思います。そして、サービス利用増加分は介護保険料の負担増加につながりますので、減免制度などありますが、低所得の方はますます利用しづらくなります。また、特別養護老人ホームが不足しているからといっても、施設建設や運営は国や地方自治体ではなく民間(社会福祉法人など)の手に委ねられています。待機者を解消するために施設を造りたいと思っても、建設費用負担が重くのしかかります。よほど財源がない限り、簡単には建設できないのです。「静養ホームたまゆら」のような施設ができておかしくない状況を介護保険制度が生み出しているのです。
 
問題点をまだ十分整理できていませんが、単に「貧困ビジネス」として取り扱うだけでは、高齢者の終の住みかの現状を生み出している大事な背景を見逃してしまうと思われました。
 
いろいろ考えてみると、日本には、生活のあらゆる「最低限」が存在するようで、実は存在しないものの方が多いのではないか、と思ってしまいます。「最低限」の底抜け状態です。それは、今月14日に出された老齢・母子加算削減・廃止取り消し訴訟、いわゆる「生存権裁判」京都地裁の原告敗訴判決にも表れています。司法の判断においても「健康で文化的な最低限度の生活」とは何かが具体的に示されていないのです。
金沢星陵大学非常勤講師 冨家 貴子