「生活保護」という言葉に、みなさんどんなイメージをお持ちですか。
 ポジティブかネガティブかと問われれば、ネガティブな印象をお持ちの方が大半ではないでしょうか。なぜでしょう。それは、生活保護に絡んだ話題の多くが「不正受給」、または「打ち切り」「水際作戦」など、生活保護を受けたくても受けられない、そしてその結果、「孤独死」が起きた、などというものばかりで、「生保のおかげで助かった」とか「生保があるから安心」などの話を一切聞かないからではないでしょうか。
 なんでそんなことになってしまっているのか。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」との憲法条文はどうなってしまったのか。生活保護をめぐる動向から探っていきたいと思います。

04 Sep

 仕事と家を失い、野宿生活をされている方の支援に参加させてもらって、考えさせられたことがあります。今回は、その一つを書きたいと思います。

 

 日本の所得保障制度は申請主義を採っています。例えば、年金は、年金保険を納めて年金受給資格を得ても、自分から申請(裁定請求)しなければ年金は給付されません。児童手当等も、申請しなければいくら資格があっても支給されません。そして、「健康で文化的な」最低限度の生活を保障する生活保護制度も、自ら申請することを前提とした申請主義をとっています。
 
 現行の生活保護制度が申請主義を採っていることには、大きな意義があります。
 現行の生活保護制度以前、1946年に制定されたいわゆる「旧」生活保護法には申請する権利がありませんでした(戦前は社会保障の権利自体認められていませんでした)。市町村長が生活保護が必要だと認めた場合に、初めて生活保護制度を利用することができたのでした。
 
 そのことは、「健康で文化的な」最低限度の生活を営む権利を有するとした憲法25条の精神に反します。国民が権利を行使できるようにしなければ、権利を保障したことにはなりません。
 
そこで、最低生活を営むことを求める権利として、保護請求権が現行の生活保護法第7条[1]に盛り込まれました。小山進次郎は、この保護請求権の構造を次のように説明しています。それは、国民に保護請求権が与えられることによって、その発動形式として保護の申請があり、保護の実施機関は申請に対し、保護の決定をするか、申請の却下をするかしなければならない、そして、申請の却下やその他の保護の決定に対して不服があれば不服の申し立てをすることができる、というものです。[2]
 
そして、保護請求権を行使できない者や行使することが困難な者がいること、また、国民に申請権の考え方が浸透するには時間がかかり、国民の最低生活保障が欠けることがあってはならないことから、必要である場合は、申請がなくとも職権による保護を行うことができるようにしました。[3]
 
 法律上は、国民の最低生活を保障するために、保護請求権を認め、保護請求権を行使できない場合の手立ても講じ、誰もが最低生活を漏れなく保障されるよう考えられているのです。
 
 しかし、これだけでは保護請求権を保障するには不十分です。小川政亮先生の本を読んで、とても大切だと思ったものがあります。[4]それは、申請主義をとるからには、その人が申請権を行使できるよう、どのようなときに、どこに行って、どのような手続きをとればよいのか、行政側に広報しなければならない義務が明確になっていなければならないことです。換言すれば、知る権利の保障です。ある自治体の生活保護に関するパンフレットを見ましたが、「生活に困窮した場合に相談してください」と書いてあっても、どの程度の困窮状態なら生活保護を申請することができるのか具体的に示されていませんし、どのように申請したらよいのかも示されていません。結局、自ら『生活保護手帳』という、福祉事務所職員が使用している実施要領集を読むか、生活保護制度に詳しい人に聞くなどしなければなりません。
 
 困窮の程度については、書くと膨大になるのでここでは省きますが、申請については至って簡単です。生活保護の申請書はありますが、申請書によらなくても、福祉事務所または町村役場で生活保護を申請したい意思を口頭で伝えてもよいですし、手紙で申請することを伝えてもよいのです。手紙は郵送でも構わないのです(内容証明郵便が確実です)。生活保護の申請書については、住民票を取り寄せる申請書などのようにカウンターに置いているところはほとんどありません。福祉事務所の面接員に相談をして、生活保護が必要と認められた場合に初めて申請書を渡されるというところが多いのではないでしょうか。もともと福祉事務所の面接員制度は、本人の意思があっても筆記能力がない場合に申請を支援するために採用された経過があります。[5]そもそも生活保護を申請するために面接員の面接を受けなければならないということにはなっていないのです。少なくとも現行法が考えられた時点ではそうなっているのです。これについては、籠山京が指摘しています。少し長いですが引用します。「申請は電話でもハガキでも、福祉事務所の窓口で口答でしてもよく、申請があって後に面接指導が行われるということであれば、要保護者はもっと福祉事務所に接触してくるであろう。(しかし)面接窓口には、生活保護とは全く関係のないような相談事も持ち込まれてくるということである(だから面接員が必要といわれているの意:筆者注)。・・・(中略)・・・いっさいの相談を申請とし、そこから請求権の行使が始まったとみなすことが、なぜできないのであろうか」「申請権をもっと簡単なものとしなくては、せっかくの国民の権利が、この段階で制限されてしまう」[6]というものです。
 
 この指摘に関して、私は全く同感です。今も、生活保護を申請させない、いわゆる「水際作戦」が行われていますが、生活保護が必要かどうかは、申請を受理してから調べたらよいことなのです。そのために、申請を受けた福祉事務所は保護の要否判定を行い、その結果を知らせなければならないという、生活保護法第24条の規定があるのです。生活保護が明らかに必要なのに、個人で申請しようとすると申請させてもらえず、支援者や法律家が同行して初めて申請が受理される、という実態は、やはり、困窮した状態がどのような状態で、どのように手続きしたらよいのか、国民にはほとんど知られていない実態を表すとともに、知られていないことが保護請求権の行使を阻んでいる要因の一つなのだと思いました。
 
 ちなみに、籠山京が提案しているような、申請権を簡単なものにしている国があります。諸外国のことに不勉強で十分紹介できませんが、世界で初めて公的扶助(日本の生活保護にあたる)の法律を制定したイギリスの申請を少し紹介したいと思います。
 
 イギリスは、郵便局に公的扶助の申請用紙が置いてあります。公的扶助を利用したいと思えば、郵便局に置いてある申請用紙に必要事項を記入して、ポストに投函するだけです。その後、それを受け取った相談員が各家庭を訪問し、家庭の状況を調べます。日本と違い、申請の受理をめぐって相談窓口でもめる、というようなことはないのです。
 
申請主義をとることによって「健康で文化的な」最低限度の生活を保障するのであれば、そのために必要なことがどれだけ保障されているのか、現行の規定も含め、見直さなければならないと思いました。
 
金沢星陵大学非常勤講師 冨家 貴子

[1] 生活保護法第7条「保護は、要保護者、その扶養義務者又はその他の同居の親族の申請に基づいて開始するものとする。但し、要保護者が窮迫した状況にあるときは、保護の申請がなくても、必要な保護を行うことができる」
[2] 小山進次郎『改訂増補 生活保護法の解釈と運用(復刻版)』全国社会福祉協議会、2004年、p162~163
[3] 前掲書、p163
[4] 小川政亮「権利実現の手続き法」小川政亮著作集編集委員会編『小川政亮著作集1 人権としての社会保障』大月書店、p253-272
[5] 小山進次郎前掲書、p165-166
[6] 籠山京『公的扶助論』光生館、1991年、p136-137