「生活保護」という言葉に、みなさんどんなイメージをお持ちですか。
 ポジティブかネガティブかと問われれば、ネガティブな印象をお持ちの方が大半ではないでしょうか。なぜでしょう。それは、生活保護に絡んだ話題の多くが「不正受給」、または「打ち切り」「水際作戦」など、生活保護を受けたくても受けられない、そしてその結果、「孤独死」が起きた、などというものばかりで、「生保のおかげで助かった」とか「生保があるから安心」などの話を一切聞かないからではないでしょうか。
 なんでそんなことになってしまっているのか。「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」との憲法条文はどうなってしまったのか。生活保護をめぐる動向から探っていきたいと思います。

23 Jan

  昨年末の派遣労働者の解雇は大きな問題となりました。

   一労働者として、労働市場のあまりの不安定さに不安を覚えました。そんなとき、金沢の研究会で、解雇撤回運動を行っている労働組合活動家の生活保護受給問題についての新聞記事がメールで流れていました。それを見て、現在の生活保護法を作った一人である小山進次郎氏の著書『生活保護法の解釈と運用』を思い出しました。


 1946年に施行された生活保護法(ここでは「旧生活保護法」と呼びます)は、労働能力はあるが勤労の意思の無い者、生計の維持に努めない労働者の生活保護は認めないと条文に規定していました(このことを「欠格条項」といいます)。しかし、旧生活保護法を改正する過程で、それでは差別することなく平等に保護することに反するとして、1950年に旧生活保護法を大幅改正した現在の生活保護法では、労働能力のある者も生活保護を受ける権利があると認めました。


  生活保護法はその時々の社会の変化に対応できるよう、あえて条文で細かいことを決めていません。例えば、物価が上がって今の最低生活費では生活できなくなった場合など、事あるごとに国会で審議・議決しなければなりません。そのような事をしているうちに、生活保護を受けている人の生活はますます困窮していきます。そこで、条文に細かい事はあえて書かず、厚生省(厚生労働省)が出す通知などによって柔軟に対応できるようになっているのです。しかし、このことは裏返せば、国会審議を得ることなく、厚生省(厚生労働省)がどのようにでも通知を出すことができるということになります。


  旧生活保護法が改正されることによって、労働能力のある者も生活保護を受ける権利のあることを認めましたが、厚生省の出す通知などによって、労働争議に参加している労働者に対する生活保護を受ける権利は認めないとしました。これに関しては、旧生活保護法を改正するときの議論が残っています。


  議論は「積極説」と「消極説」とに分かれました。「積極説」というのは、労働争議に参加している本人とその家族が生活保護を受けることを認めるというもので、①生活保護法による保護は困窮状態に陥った理由を問わない②労働争議はより悪い労働条件に陥ることを防ぐ目的で行われており、労働争議に参加しているだけで労働能力を活用していないとはみなされない③事情が急迫していれば保護を行うべきことを定めているので、少なくともその家族が保護を受けることができないとする理由はない、しかし、生活保護を受けた上で就労を指示し、それに従わなければ生活保護を停止または廃止することはありうる、ことを根拠に挙げています。

  「消極説」とは労働争議に参加している本人とその家族が生活保護を受けることを認めないというもので、①労働争議は本来労働者と資本家の主張が一致しない場合に行われるものであって、国がそれに関与して影響を及ぼしてはいけない②労働争議に入る場合は予め争議資金を用意しておくことが常道である③扶養義務者による扶養や資産の処分による生計維持が優先される、また扶養しなければならない家族の生活を困窮させていることは、生計の維持に努めているとはいえない、ことを根拠に挙げています。


  この2つの説を検討した結果、あくまで生活保護の原則に照らし合わせた場合、①仮に労働争議に参加している者が生活保護を受けることになっても、それを悪用することに対する防止策は用意されている(生活保護の停止・廃止のことです)②自分やその家族を困窮に陥れているという意味では生計の維持に忠実とはいえない③家族とは扶養義務の関係にあるが、労働争議に参加している場合、扶養能力はないとみなされるので、家族が生活保護を受けることに関しては問題ない、とされ、旧生活保護法に定められている労働能力はあるが勤労の意思の無い者・生計の維持に努めない労働者に該当するとして、労働争議に参加している本人は生活保護を受けることができないようにしました。


  結局、旧生活保護法の欠格条項がこのようにして現在の生活保護法の条文ではなく、その運用に残されたのです。
  資本主義社会という社会は、労働者が働いて賃金を得て、それで生活を営むことで社会が成り立っているので、消極説の②の、労働者同士が資金を提供し合い、助け合って、自分たちの労働条件を良くしていくべきことはその通りだと思いました。しかし、消極説①の、資本家と労働者の問題に国が影響を及ぼしてはいけない、ということには疑問を感じました。労働者が生活費に困窮すると争議を続けることはできませんので、生活保護を認めないということは、逆に資本家が有利になり、働かざるを得ない状況に追い込むことで、労働条件が引き下がることにつながる、目には見えない形で国が労働争議に関与することになるのではないか、とも思いました。


  実は、自分の中でこのことに対する明確な答えは出ていません。つくづく自分の勉強不足を感じます。しかし、これは労働争議に参加している労働者だけの問題ではなく、私自身も含め、全ての労働者の問題だと思っています。一見すると、労働争議はそこに参加している労働者だけの労働条件改善の取り組みに見えるのですが、その積み重ねが確実に他の労働者の労働条件の向上にもつながるからです。
  その労働争議に参加している人の生活費について、どうしていけばよいか、改めて議論が必要だと思いました。

 「勞働爭議に参加したる為に生活の保護を要する状態に陥つた者に対する生活保護法の適用に關する考察(昭和二四・八・一一)」小山進次郎『改訂増補 生活保護法の解釈と運用(復刻版)』全国社会福祉協議会、2005年、pp148-152

金沢福祉専門学校教員 冨家 貴子