01 Oct

 9月29日の反貧困京都集会に行ってきました。基調講演は反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さん。そのお話を聞いて、生まれて初めて意識することがありました。

 

 湯浅さん自身は一言もその言葉をおっしゃらなかったのですが、それは、自分が労働者階級であるという意識です。

 

 みなさんからは、いまさら何をいわんやと笑われるかもしれません。いま仕事をしているという事実から会社員であったり職員であったりすることは自明であるもの、労働者とか賃金労働者という呼び方には違和感があったり、まして労働者階級であるという階級意識は、普通(?)に生きている分には今やほとんど感じられないようになっているように思います。普段身の回りに階級という言葉が登場することはなく、市民や消費者や視聴者というソフト(?)なある一側面での利害関係集団として扱われることが普通です。

 

 しかし、これは階級とは全く異なるカテゴリーでしょう。これはたまたまある種の目的で集まった(あるいは集められた)集合であって、集まる理由が消滅すれば一人ひとりも属性のない「個人」に戻っていく。つまり、あくまで「個人」が基本であり、その時その時の状況に応じてさまざまな集団に合流しては離れていく。よって、社会への対峙の仕方も、人それぞれでいいんじゃない?というある種深入りしないのが「普通」となる。

 

 この社会観では、すべての価値観が相対化されていて、階級から連なる連帯や協同や団結といった言葉は、どうも肌になじまない。でもやりたい人がいるんなら勝手にやればいいんじゃない?ボク関係ないけど、という感覚。だから、組合なんかはちょっと特殊な集まりと映る。

 

 でも、それじゃダメなんだ。ぼくらは運命共同体なんだってことを教えられた気がするのです。つまり自分は逃れ難い階級に縛られているのだと。逆にいえば、連帯や協同や団結するしか、状況を良くする道はない。自分だけ、家族だけ、仲間だけ、なんてありえない。それは選択ではなく必然。やるしかない。そんな感覚が、湯浅さんのお話を聞いて沸き起こってきました。