社会保障を研究する大学院ゼミのゼミ生6人+先生が送る、社会保障の今を伝えるコンテンツ。社会保障の歴史から後期高齢者医療制度まで、広く深くお伝えします。

27 Aug

 私の娘は、一昨年10月31日に悪性脳腫瘍「随芽細胞腫(ずいがさいぼうしゅ)」の再発で22歳という若さで亡くなりました。

  3歳時に同病を発病し6歳まで7度の播種(転移)を繰り返し、その間、京都府舞鶴市にありました「舞鶴市民病院」の脳外科に入院していました。3歳時の最初の発病時は、2週間ほど朝方毎日吐く状態が続き、最初は「胃腸風邪」と診断され風邪薬をもらいましたが、収まる気配が無く、直感的に私は「脳腫瘍」を疑いました。医師にそのことを説明し頭部のCTスキャン(当時は、MRIを設置している病院は殆ど無くCTで判断していました)をお願いしましたが、「素人の勘ぐり」と一蹴され3日ほどほっておかれました。

 しかし、毎日私が、CT検査を懇願するのでその熱意に負けて仕方なくCTを撮ってくださいました。その画像は、今でも鮮明に覚えていますが、「小脳の3分の1が真っ白く」写っていました。医師はそれを診て愕然とし、すぐに手術を決意され、脳圧を下げるために(限られた頭蓋骨の中で、腫瘍が発生すると脳全体を圧迫し頭痛や吐き気をもようすので)頭頂部に小さな穴を空けそこから「脳髄液」を逃がす手術をしました。その2日後、後頭部の両耳の間の頭蓋骨を外し(横10cm、縦5cmでしたが、後に播種した場合を想定し、結局除去した頭蓋骨は外したままにしておきました)小脳の右(小脳全体の3分の1)を除去しました。およそ12時間に及ぶ大手術でした。

 そして翌日の朝、その腫瘍の正体が「髄芽細胞腫」であることが告げられ、「この病気は、全国でも毎年70~80名ぐらいしか罹らない珍しい病気で、5年生存率は0.5%。抗ガン剤、放射線も併用しますが、播種を繰り返し亡くなるだろう」と言われました。

 私は、その当時大学院の博士後期課程に入学したばかりでしたし、妻は障害者施設で介護職をしていましたが、彼女は急遽仕事を辞め病院で娘の看病をすることとなりました。私は、修士課程から発掘作業員をやりどうにか日銭を稼ぐ生活でしたので、突然生活が困難になりほぼ大学院に通えず、発掘作業員を続け毎日それが終わると現場から病院に通う日々を送りました。
 
 娘は、当時3歳で病気を理解することが出来ませんでしたので、病名や完治の見込みがないことは告げず、一縷の望みを信じ積極的治療に専念しました。抗ガン剤や放射線治療は幼い子どもには想像を絶する辛さでした。頭髪は全部抜け落ち、吐く毎日が続き無菌室で外の世界も見ることが出来ませんでした。結局、3年間に7度播種し7度の腫瘍除去手術、その度に抗ガン剤、放射線療法を続けました。当時は徹底的に放射線を使うのが治療の主流でしたので人体の許容限度値の35グレイを使ってしまいました。その効果なのでしょうか。3年を過ぎてからは播種することはなくなりました。小児慢性特定疾患(国の医療研究事業)の指定を受けましたので、その後も20歳まで毎年2度MRI検査を受けましたが、好運にも播種はありませんでした。
 
 しかし、積極的な治療を行ったことから、左片麻痺(小脳の3分の1を除去したため)、知能の発達遅滞(正常な脳細胞がかなり死滅したため)があり、小学校、中学校、高校と教科の成績は常に最下位、運動も殆ど出来ませんでした。しかし、娘は小学校から高校まで校内マラソン大会にも出場し校庭に最期に左足を引きずりながら帰ってきました。また、運動会でも全ての種目に出場し、可哀想なぐらい何も出来ないのに頑張っていました。高校では、体が不自由にもかかわらず「ヨット部」に入り、2002年富山国体に福井県代表選手として出場しました。
 
 その後、推薦で地元の「介護福祉士専門学校」に入学・卒業し一昨年(2005年)4月から週2回だけ社会福祉協議会のデイサービスセンターで介護補助の仕事を始めました。ところが、一昨年の5月頃から、職場で何度か転倒し、同僚が心配して私の家に伝えてくれました。私は、脳腫瘍は完治後16年も経ているので脳腫瘍の再発とは思わず、地元の病院(公立小浜病院)の内科を受診させ精密検査を受けました。その結果、「高脂血症」でありその治療をしましょう、ということでした。しかし、その後娘は、仕事が休みの日は、ほぼ毎日「体がだるい」といって1日寝ているだけでした。
 
 そして一昨年7月17日、従兄弟の結婚式が大阪のリッツカールトンホテルであり、かなりきつい様子でしたが出席しました、私が側で見守りましたが、食事には一つも手を付けることが出来ず終始「うつむいたまま」でした。帰りのバスでも、何度も吐くようになり、福井に帰って直ぐに地元の公立病院に救急で掛かり、掛かり付けの内科の医師に「腫瘍の再発の可能性があるので、脳のMRIを撮ってください」と懇願しましたが、「16年も経て再発はあり得ません」と撥ね付けられました。しかし、食い下がりMRIを撮っていただきました。その画像を脳外科の医師が診て「シャント(脳髄液を腹腔に逃すため、直径3mmの管を脳から腹腔まで入れていたもの)が詰まったのでしょう、これを新しいものにすれば直ぐよくなります」と告げられ、「あー、腫瘍の再発でなかったのだ」と家族全員で安心いたしました。7月19日にシャントの入れ替え手術をし、無事成功しました。
 
 しかし、娘の体は、徐々に動かなくなり8月になると寝返りも打てなくなりました。医師に脳腫瘍の再発があるので直ぐに脳及び脊髄のMRIを申し込みましたが、「学会でも完治後7年目の再発例は報告されているが、16年は再発とは考えられません」と言われました。結局8月23日にやっと脊髄のMRIを撮り、脳外科の医師は「再発を疑う」事となりました。
 
 8月24日の夜ナースステーションに呼ばれ、私は医師から衝撃的な告知を受けることとなりました。「脳幹から脊髄にかけて無数に播種があるようです。私だけでは判断できないので、明日この画像を持って京大病院の脳外科の岸医師に正確に診断してもらってください」と告げられ、愕然としました。私は、8月25日早朝京大病院に向かいました。ロビーで待つ時間が「無限」のように長く感じられました。誰も患者がいなくなった最期に私が診察室に呼ばれました。
 
 岸医師は「残念ですが、髄芽細胞腫の再発です。この病気には放射線が効きますが、既にお嬢さんは許容量の35グレイを放射しているので放射線療法は無理です。また、抗ガン剤もここまで播種していては全く効果はありません。残念ですが長く持って3ヶ月です。最期の時間を家族で安らかに過ごされてください」と私たちに告げました。
 
 私は、帰りの車でただ泣きながら小浜市までひたすら急いで帰ってきました。家族は、「最期を家で看取りたい」と私に懇願しました。私も、賛成しその足で小浜病院の娘の病室に向かい、医師に京大病院の診断結果を告げ、「家でできるだけ看てあげたいので、今日帰らせてください」と申し入れしました。医師は「家族の思いを大切にしたいので、今日から帰って良いですよ」と優しく言われました。娘には、泣き顔を見せず笑いながら「家に帰れるよ」と言ってあげました。娘は、満面の笑みを浮かべ喜んでいました。
 
 しかし、家での看病は2週間だけでした。腫瘍による痛みが激しく痛み止めの「塩酸モルヒネ錠剤」では痛みを和らげることが出来なくなりました。結局、病院に再度入院し「液体塩酸モルヒネ」の24時間投与と、モルヒネの約20倍の鎮痛効果がある「デュロテップパッチ」を胸に張り痛みを抑えました。癌の疼痛は、殆ど無くなりましたが、脊髄の腫瘍が神経を圧迫し、体全体が全く動かなくなりました、亡くなる1週間前からは口も動かすことが出来なくなり、痰の吸引も困難を極めました。腫瘍は、呼吸中枢がある脳幹にも達していたので、心臓が止まる前に呼吸が先に止まり同時に心臓も機能しなくなり10月31日22時30 分に亡くなりました。
 
 娘の亡骸は、病院の裏から密かに自宅に帰されました。娘の弟たちは、娘の部屋に入りその部屋で娘が最期に聞いていたCDを発見しました。それは、デフ・テックの「My Way」でした。残された、私たちに勇気を与える歌で、通夜の11月2日、そして葬儀の当日11月3日にもずっとMy Wayをかけました。葬儀には、約400人もの人が集まり亡き娘のために涙を流してくれました。
 
 デフ・テックは・・・・地に足つけ   頭雲抜け 進む前に前に 手を繋げば怖くないから そこまでお前は弱くないから でもいつまでも側にいないから・・・・と歌い、残された家族に勇気を与えてくれました。そして、娘はもう側にはいないのだと自覚しました。今では、My Wayが私のお気に入りの歌です。
 
立命館大学産業社会学部
教授:芝田英昭