社会保障を研究する大学院ゼミのゼミ生6人+先生が送る、社会保障の今を伝えるコンテンツ。社会保障の歴史から後期高齢者医療制度まで、広く深くお伝えします。

03 Jul

  私は28歳までの5年間、郷里の福井でしがない公務員生活を送った。友人の多くは、「福井」と聞くだけで「原発」を連想した。事実、私の住んでいた「若狭地方」には15基もの原発が稼働している。中学生の頃、高度成長の絶頂期「エキスポ70」が開催され、福井県敦賀市の原発から送電された電力で「動く歩道」が人々を運んでいるのを見て、何気にか興奮した。

 

  しかし、私の貴重な青春時代を費やした公務員時代は、原発がなぜ鄙びた港町に立地しているのか、そしてそのような町には決して似つかわしくない豪華な「公共施設」が沢山できるのか、心中穏やかではない日々であった。巷では、原発から億単位の現金が故郷の町々に吸い込まれていった、と毎日聞かされた。ちょうどその頃、私は「公務員」としての自分が嫌でたまらなく、何か違う道を選ぼうと焦っていた。28歳の冬、私は大学院への入学を決意し入学試験に挑んだ。
 
 大学院入学後、「原発が立地したことで自治体財政や住民生活がどのように変化したのか?」を研究することにした。研究は、自治体や原発の「秘密主義」に阻まれ順当には進まなかった。加えて、公務員を辞めたことでお金がなく食うこともままならなかった。私は、その頃始めた遺跡発掘作業員の仕事が生きるためには重要であり、なかなか講義への出席も疎かになっていった。しかし、発掘作業場の「プレハブ」で時間を見つけては本を読んだりレポートの執筆に勤しんでいることが、研究を行っている感覚に浸ることができ、少なからず充実感をおぼえた。
 
 その頃、修士課程の指導教員は私にしきりと博士課程への進学を勧めた。私は、将来の不安から博士課程への進学には躊躇したが、後に博士課程の指導教員となる「岸勇」先生からの言葉で迷いは消えた。先生は、「君は、日本の将来を担う研究者になるべきだし、それができる」と言ってくれた。
 
 博士課程に進学して直ぐに長女が悪性脳腫瘍(髄芽細胞腫)に冒され、長期の入院生活を余儀なくされた。その間、8度に及ぶ腫瘍摘出手術、30グレイの放射線療法、抗ガン剤の投与等、その病院とのつきあいは20年近く続いた。博士課程の3年間は、発掘作業現場から病院に直行する毎日であった。
 
 当然、大学にはほとんど通うことができなかったが、月に一度だけ、恩師の岸勇先生に報告を兼ねて京都の地を踏んだ。先生は、私が帰る際、いつもそっと土に汚れた私のポケットに、「ワイフが、芝田君にと言って」と封筒をさしこんだ。そこには、「少ないけど生活の足しにして下さい」と走り書きがしてあり、3万円が同封されていた。それは3年間欠かすことがなく続き、私を物心両面で支えてくれた。私は、このとてつもなく人間味のある恩師のおかげで、社会保障に関心を寄せることとなった。岸勇先生は、「岸・仲村論争」として戦後の社会福祉本質論争を牽引した1人である。私の原点は、娘の脳腫瘍と岸勇先生であるが、既に2人ともこの世にはいない。娘は、2006年10月31日、約3ヶ月間のターミナル・ケアの末、22歳でこの世を去った。いつも、けらけらと笑う天真爛漫な性格で、彼女が不自由な体であることを忘れさせてくれた。
 私には、何ができるのか? これからも社会保障と格闘したい。
(立命館大学 芝田英昭)